戦いはずっと続いていた。
「がんばって」そう声を掛けながらチラリと時計を見る。
時計の針は午後十一時を大きく回り、もう少しで日付が変わる頃を示している。
「思ったより時間がかかっているわね。でも大丈夫」
気持ちを落ち着けるとふと自分に注がれている視線を感じてそちらのほうに目をやる。
「思ったとおりね」
初めての立会いで不安になった後輩が視線で「大丈夫ですか?」と問いかけていたのだ。
私も初めて立ち会った時は同じように不安だったなぁと後輩の姿に当時の自分を重ね合わせると少しだけ微笑んで「大丈夫よ」と左手でゼスチャーを送る。
それを確認した後輩が少しだけ表情を和らげたその時だった。
「オギャァ!」
部屋中に響き渡る元気な声。
その声はまるで戦いの終焉を告げるかのよう。
先生が母子共に健康であることを確認、にっこりと微笑むと初めてホッとした空気が流れる。
始めて出産に立ち会った後輩は先生が大きくうなずいているのを見て涙を浮かべ、大役を果たしたお母さんが生を受けた子供に喜びと優しい愛を視線で注いでいる。
出産直後の大きな喜びの瞬間。
幸せを感じながら私はたった今生を受けたばかりの新しい生命に向かう。
そして喜びを言葉にする。
「生まれてくれて、Welcome!」と。
「七瀬先輩、お疲れ様でした」
出産の喜びに少しだけ浸った私たちはその後様々な仕事をこなし、ようやくお役ゴメンとなったのは午前2時を回っていた。
「お疲れ様。初めてで疲れたでしょう」
初めて出産の立会いという大役を無事にこなした後輩をねぎらう。
「いえ、大丈夫です。それより七瀬先輩食事とかどうされますか?まっすぐお帰りになりますか?」
そう言われると仕事中には緊張で感じていなかった空腹に気づく。
「う〜ん、そうねぇ。もしよかったら軽くお酒飲んで帰りましょうか......って、どうしたの?」
そう提案した私は後輩がビックリした表情になっていてあわてて問いかける。
「あ、スミマセン。七瀬先輩からお酒って言葉が出るとは思わなかったので」
「ごめんね。そうだよね」
普段のお酒の席ではほとんど飲まないからその反応も当然よね、と納得する。
「でも、こうやって新しい生命とめぐり合えたときには、歓迎の気持ちを込めて乾杯することにしているの」
理由を教えてあげると後輩の表情が明るくなって「是非是非、お付き合いさせて下さい!」と大賛成してくれる。
「よかったぁ、じゃあどこに行きましょうか?」
コートのボタンを留めながら開いているお店はどこかあるかなぁと考えはじめた。
「お疲れ様でしたぁ、と生まれてきた赤ちゃんに乾杯!」
後輩の元気な声に「乾杯」と返しながらグラスをカチン!とぶつけて褐色の液体を流し込む。
疲れた身体にカルーアミルクの甘さが心地よく、顔がほてってくるのを感じる。
「あ〜、七瀬先輩もう顔が真っ赤ですよ」
あっという間にレモンサワーを空にした後輩がお代わりを頼みながら指摘してくる。
「うん......もともとお酒が飲めるって訳じゃないし、乾杯するって言ってもいつも一杯だけなの」
まだ半分も空いていないグラスを眺めながら両手を頬に当てて熱くなっているのを確認する。
「先輩と二人で飲みに行くって初めてですよね」
そんな後輩の言葉に頷きながら色々な話に花を咲かせる。
「そう言えば、一つ聞いてみたかったことがあるのですけど」
4杯目のサワーに口をつけながら後輩が尋ねてくる。
「え......何かしら?」
私のカルーアミルクはまだ三分の一くらい残っている。
「七瀬先輩はどうしてこの道を選ばれたのかなぁ?と思って」
「......それはね」
言いかけてふと高校生の時の決心を思い出して微笑む。
「え?どうしちゃったのですか?」
そんな反応に後輩が不思議そうな表情を浮かべる。
「ごめんね。ちょっと思い出していたの」
カルーアミルクを一口飲んでから後輩の質問に答え始めた。
目が覚めた時はお昼前だった。
「昨日夜更かしし過ぎちゃったなぁ」
軽く伸びをしてそっとつぶやく。
昨日終業式があって今日から学校はお休み。
でも寝坊してしまったのはお休みだったからだけじゃない。
ずぅっと見つめていた、大好きだった幼馴染の彼とのお別れがあったから。
それだけじゃなくって最後の最後まで伝えることのできなかった想い、そして彼に寄り添った大切な友人......。
悲しかった、ただただ悲しかった。
夜、お風呂に入ってポロポロポロポロ涙をこぼした。
身体中の涙がなくなってしまう位たくさん泣いて。
そして、泣けるだけ泣いた後お風呂の中でした大切な決心。
「自分を磨いてイイオンナになる」
それが、私の決心。
それから、彼にお手紙を書いて、それを破り捨てて想いに区切りをつけて。
ベッドの中で「どうやって自分を磨こうか?」って考えながらこうしてみようかな?って決めた頃には外が明るくなってきていて、それからあわてて眠りについて。
「さ、早速はじめましょう!」
キュッ!と表情を引き締めて一日をスタートさせる。
何を始めたかって?
ううん、特別なことを始めたって訳ではなくって。
「今までやっていたことをもう少しだけ一生懸命やってみよう」
それが、私の決心。
だって、何をやったら自分を磨けるかって今はよくわからないから、今出来ることから頑張ろう、って思ったので。
それと、もう一つ。
「何にでも好奇心を持ってチャレンジしてみよう」
色々なことにチャレンジすることで、自分を磨けるやりたいことが見つかるかもしれない、そう考えたから。
だから、いつもと同じように。でも、前よりもう少しだけ一生懸命に、好奇心を持って。
お菓子を作るときでも、フルートを練習するときでも、勉強するときでも......。
そしてラジオから流れてくる音楽がいままで聞かなかったジャンルの曲でも気になったらレンタルショップでCDを借りて聞いてみたり、本屋さんに行ってもいつものお菓子やぬいぐるみ作りだったり、フルートの譜面のコーナーだけじゃなくって、まだまだ着られそうにない大人のファッション誌や、ベストセラーのコーナーへ行くようにしてみたりした。
お休みが終わって、学校が始まってからも「前よりもう少しだけ一生懸命に、好奇心を持って」行動するようにした。
だから、彼が選んだ親友の葵とだって「前よりもう少しだけ一生懸命に」仲良しになるようにして。
そんな風に毎日を過ごしていた私に訪れたきっかけは、本当に偶然だった。
ある日見ていたテレビに映ったある光景。
それは出産をテーマにしたドキュメンタリー。
難産で、長時間の格闘の末に生まれた新しい命、そして喜び。
涙をにじませながら見ていた私の耳に届いた感動的なテーマ音楽。
それは、誕生の喜びをこう歌い上げていた。
「生まれてくれて、Welcome!」と。
その瞬間、にじんでいた涙がポロポロとこぼれだす。
こんなに涙がこぼれるのって、あの時お風呂で泣いた以来よね。
いっぱいこぼれた涙をぬぐいながらそんなことを考える。
そうしているうちに何とも言えない熱いものが胸に上がってくるのを感じる。
「えっ?えっ?」
不思議な感覚にちょっと戸惑う。
でも、気持ちが落ち着いて来れば来るほどそれが何なのかはっきりしてくる。
ホットチョコレートを飲みながら自分の気持ちをもう一度確かめる。
「うん」
小さく頷く。
「私も、新しい命に歓迎の言葉を贈ってみたい!」
自分を磨くものが何かを見つけたような気がした。
「それからなの、この道を選んだのは......あれ?」
長い長いお話を終えて気付いたのはスウスウとかわいらしい寝息を立てている後輩の姿。
「ごめんね。疲れているところに、つまらない話をしちゃって」
謝りながらコートをかけてあげた時に、ふとその目に涙が光っていることに気がつく。
その姿に少しだけ共感してもらえたのかなぁ?なんて思ってちょっと照れくさい気持ちになる。
「他の人にお話したのは初めてね、ちょっと恥ずかしくなっちゃったわ」
照れ隠しをするように寝ている後輩にそっとつぶやくとカルーアミルクを飲み干す。
「もう少しで電車が動くわね。それまで寝かしておいてあげましょう」
腕時計をチラリと確認してから店員さんに「すみません」と声をかけてカルーアミルクのお替りをお願いする。
いつもは一杯だけだけれど、今日はもう一度乾杯がしたくて。
「ありがとう、あの時の気持ちを思い出させてくれて」
後輩にそっとつぶやくと届けられたカルーアミルクのグラスを掲げる。
「これからも自分を磨いて新しい命に歓迎の言葉を贈り続けます。乾杯!」
口にした液体はあの時のホットチョコレートと同じ甘さを感じた。