バシッ!
壁にたたきつけられた参考書が抗議するかのような音を立てる。
おれははっとしてたたきつけてしまった参考書を拾い上げるとそのままベッドの上に体を投げ出す。
ベッドの上から送る視線の先には「絶対合格」の張り紙。
「わかっている。わかっているよ!」
その張り紙に八つ当たりの声を上げる。
高校三年の夏休み。
受験を控え、一番頑張らなくてはいけない時期。
おれはいらだっていた。
原因は戻ってきたばかりの模試の結果。
「Bランク」
第一志望、いや唯一の志望校である青葉大学。
その評価が芳しくなかったのだ。
しかもこの志望は絶対に変えられない。
なぜなら、昨年おれが転校するときに大切な人と交わした約束があるから。
そう、懐かしい青葉台の町に戻るという約束。
そして、大切な人が進学したのが地元の青葉大学なのだ。
おれも青葉大学への進学に向け、頑張っている。
……頑張っているつもりなのだけれど、なかなか結果につながってこなくて。
「何でBランクなんだよ!」
ベッドに寝転んだまま怒りが口をつく。
当初はここまで苦戦するとは思わなかった。
学校の成績を考えても、決して高望みしているわけではない。
でも、何だか焦った気持ちになってしまっていて。
「香坂さん……」
机に立てかけてあるフォトフレームの中で笑顔を浮かべている大切な人に話しかける。
涙がこぼれそうになり、おれはあわてて顔を洗いに部屋を飛び出した。
高校二年の秋。
おれは生まれてからずっと住んでいた青葉台の町に別れを告げた。
父親が遠くの町に転勤することになったからだ。
そして、転校するまさに最後の日。
おれは、想っていた人とお互いの気持ちを確かめあうことが出来たのだ。
彼女の名前は香坂麻衣子さん、一つ年上のとっても素敵な人だ。
「戻ってきます」
香坂さんは一つ年下の俺の約束を信じ、青葉台の町で待っていてくれている。
そう、だからこそおれは帰らなくてはいけないのだ。
香坂さんの通う青葉大学への合格を果たして……。
「よし、気合入れよう!」
冷たい水で顔を洗ってすっきりした気持ちを取り戻したおれは先ほど投げつけた参考書を再び開く。
でも、何だか今一つ集中できなくって。
「だめだなぁ……」
ため息が一つ漏れる。
「せっかく明日は香坂さんと会えるって言うのに……」
受験生であるおれのことを気遣ってわざわざ香坂さんが会いに来てくれる。
そして、おれの住んでいる町からすぐのところにある海水浴場へデートに行こうという計画を立てているのだ。
そんな楽しい一日が目前に迫って来ているというのに、気持ちばかりが焦ってしまって勉強がはかどらない。
おれはため息をもう一つつくと参考書に再アタックを試みた。
香坂さんはおっとりとした微笑を浮かべて立っていた。
「遅くなってすみません」
「あらあら、いいのよ。それよりも元気だった?」
謝るおれを優しく制しながら香坂さんが問いかけてくる。
「ええ……まぁ元気ですよ」
心配させちゃあいけないと思いながらも少しだけ歯切れが悪くなってしまうのを感じる。
人差し指を口元に当てる得意のポーズでそんな僕の姿をしばらく見ていた香坂さんだったが、にっこり微笑みなおして「さあ、行きましょう」とおれの手をきゅっと握り締めてくれた。
「う……わぁ」
おれはそれだけ口にして、固まってしまう。
海に到着して、着替えるために少しの時間別行動になったおれたち。
再びおれの前に現れた香坂さんはヘアバンドとおそろいにしたオレンジのビキニ姿に身を包んでいたのだ。
しかも……。
(香坂さん、またプロポーションが良くなっている気がする)
その見事な胸元が目に入り、固まってしまったのだ。
「コラッ!」
そんなおれの視線に気づいた香坂さんが少し頬を赤く染めながら両手を腰に当てる。
「あ……いや、ごめんなさい……うわっ!」
口ごもるおれはいきなり腕を組んできた香坂さんに驚いてしまう。
「うふふ、さぁ行きましょう」
表情を微笑みに戻した香坂さんはそのまま海のほうへと歩いていき、おれはドギマギしながら引きずられていった。
夏の暑い日差しの下でひんやりとした海を感じながらのひと泳ぎ。
泳ぎ疲れて乾いた喉にさわやかな刺激を与えてくれるかき氷の冷たさ。
大切な人と寄り添いながら見ることのできる風景。
どれもこれもこの夏で一番の休日を彩ってくれる素晴らしいひと時。
……でも、心から喜べなくて。
せっかく、香坂さんが隣にいてくれるというのに。
香坂さんの話に頷いていても、一緒に笑っていても。
デートを楽しみながらも心のどこかに暗い影を落としている不安。
それが、おれの笑顔を心からのものにしていなかったのだ。
そんなことを考えていたその時だった。
「ねぇ。一つ聞いてもいいかしら」
隣で寄り添ってくれていた香坂さんがポツリと質問の言葉を口にする。
「あ……」
そう聞いてきた香坂さんの表情を見てはっとする。
なぜなら、今までに見たことのない寂しそうな表情だったからだ。
「何やっているんだ……」
思わず口にする。
自分一人で勝手に焦って、不安になって。
一番大切な人を寂しがらせて。
「すいません、香坂さん。おれがバカでした」
まずはこれまでの全てをお詫びするように深々と頭を下げる。
そして、心に詰まっている全てを香坂さんに打ち明ける。
なかなか結果につながってこない受験勉強。
約束どおり青葉台の町に戻れるのだろうか?
不安な気持ちがますます受験勉強をはかどらないものにしていて……。
「おれは、青葉台へ……香坂さんが待ってくれている青葉台へ戻らなくてはならないのに……」
その言葉を口にしたときだった。
「あなたの気持ちはとっても嬉しいわ。でもね……」
香坂さんが語りかけてくれる。
「焦らないで。私の気持ちは変わることはないのだから。来年すぐじゃなくても、いつかあなたが帰ってきてくれさえすれば、それでいいのよ」
おっとりとした口調、でも力強い香坂さんの言葉。
「香坂さん……」
涙が一滴頬を伝い、おれはそれだけしか口にすることが出来なかった。
「ねぇ、今日は何曜日だか知っている?」
しばらく涙をこぼしていたおれに香坂さんがにっこりと微笑みながら質問する。
「え……?」
そんなの決まっているじゃないですかとカレンダーの曜日を口にしたおれに笑顔のまま不正解よと首を振る香坂さん。
Illustrated by Satochi for SweetPivot [URI]
「しあわせようび?ですか?」
初めて聞く言葉におれは疑問を口にする。
「そう。今日はあなたと会えてとっても幸せ。だから今日は幸曜日なの」
おれはもう一滴涙をこぼす。
「ホントにおれはバカでした。おれだって香坂さんに会えて幸せなのに、つまらないことでクヨクヨして」
そこまで言って、手のひらで涙をぐっとぬぐう。
「だから……いまから香坂さんと幸曜日を楽しみます!」
そう言って今度はおれの方から腕を組む。
「そうね。幸曜日を楽しみましょう」
香坂さんも答えながら「今度は何をしましょうか?」と組んだ腕に力を込めてきた。
模試の結果が戻ってくる。
ちょっと緊張しながらも、確信を持って結果を見つめる。
右手を軽く握ってガッツポーズ。
「Aランク」
充分合格圏内の結果だ。
香坂さんと過ごした「幸曜日」の後、おれは自分の心の中で何かが変わったことを感じていた。
大切な人が待っていてくれる。
それを妙な焦りにせず、純粋に心からの楽しみに昇華させて勉強に取り組むそんな気持ちを持つことが出来るようになったのだ。
心が軽くなったら、勉強も急にはかどるようになって。
「香坂さん」
フォトフレームに写った笑顔に話し掛ける。
「焦らず頑張ります。青葉台の町で……一緒に幸曜日を過ごせるように」
それだけ話すと、おれは勉強に取り掛かった。